三宅藤兵衛 〜天草四郎と戦った明智光秀の孫〜

第7代天草番代 三宅藤兵衛重利

天正9年(西暦1581年)に生まれました
 ※以降( )内の年数は西暦

【家系図】(簡略)
家系図.jpg

祖父が明智光秀で
明智光秀の女婿となるのが 父の明智左馬助です
叔母がガラシャとも呼ばれる 細川玉(明智光秀の三女)で
その子で藤兵衛の従兄弟となるのが 肥後細川藩初代藩主の細川忠利です


藤兵衛が生まれた年に父の明智左馬助は丹波福知山城の城代となります
【福知山城】
福知山城.jpg

その翌年 天正10年(1582年)
 祖父 明智光秀は主君 織田信長を討ちます(本能寺の変)

その後 明智家は 豊臣(羽柴)秀吉など織田信長の家臣に攻められ
光秀は小栗栖にて 左馬助ほか母・祖母などが坂本城にて亡くなります

この時 藤兵衛(幼名 師のり)は 母が姥に命じて難を逃れ 京都の大文字屋に匿われ
天正14年(1586年)に 5歳で鞍馬寺に入ります

文禄2年(1593年) 叔母である 細川玉のいる 細川家に引き取られます

慶長6年(1600年) 徳川(東軍)と豊臣(西軍)の争いの中
西軍の石田三成に人質となるよう迫られた玉は 事実上の自害を遂げます

翌年 21歳のとき藤兵衛は父方の縁を頼り 肥前唐津藩初代藩主の寺沢広高に仕えます
【唐津城】
唐津城.jpg

唐津藩に仕えて20年経った元和7年(1621年)
41歳のとき唐津藩の飛地である天草の番代となります
【富岡城】
富岡城01.jpg

城代となった富岡城は 周りの景色が龍の形に似ているので 臥龍城とも呼ばれていました
臥龍城遠景02.jpg

また 祖父 光秀が築城し父 左馬助が城代を勤めた 京都の福知山城も 臥龍城と呼ばれていました

藤兵衛が天草を任されて11年後の寛永9年(1632年)
従兄弟の細川忠利が肥後熊本藩主となり 肥後熊本と天草は 明智光秀の孫によって治められることとなりました


寛永14年(1637年) 藤兵衛が天草を任されて16年 57歳となった年に
島原で領民の反乱が起きます のちに島原・天草の乱と呼ばれました

天草の大矢野島で 豊臣家の家臣であり キリシタン大名であった小西行長の家来 益田甚兵衛の子
益田四郎時貞を大将とした軍が組織され
藤兵衛のいる富岡城を目指しました

藤兵衛率いるの唐津軍と 四郎率いる一揆軍は 本戸城跡の麓に流れる町山口川で対峙します
唐津軍1,600に対し 一揆軍は3,600と言われています

唐津軍は数で押され 藤兵衛も打って出ますが敗走
傷を負った藤兵衛は 寛永14年11月14日(1637年12月30日) 広瀬川の近くで自刃したと 伝わります

勢いに乗る一揆軍は 富岡城を攻めます

藤兵衛を失った富岡城ですが 大将となった原田伊予のほか 藤兵衛の子(明智光秀のひ孫)らが籠城戦に成功
四郎率いる一揆軍は島原の原城へと向かいます

乱は寛永15年2月28日(1638年4月12日)に終結します
このとき天草四郎を討ったのは 従兄弟となる細川忠利の家臣 陣佐左衛門とされています
【一揆軍進路】
一揆軍進路.jpg


後年 自刃した近くの天草市本渡町広瀬にお墓が建てられます
お墓.jpg

また 富岡城近くの天草郡苓北町の瑞林寺に供養碑が建てられます
供養塔.jpg




歴史には諸説あり これはその一つです





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